視察を終え、現場を後にした大地を見送ると、陽南子は溜息をついた。 男社会というのは本当に厄介だ。 祖父はこんな状況になっても、陽南子には絶対に跡を継がさないと言い切った。 職人の世界に女の入る余地はないと。 今回のことにしても、源之助が倒れる前に請け負った仕事だから、断れないという理由で、不承不承巽のことを任せてくれただけだということは、彼女自身が一番良く分かっていた。 第一自分は職人たちに信頼されているわけではない。皆と同じ作業さえできないのだから、端から彼らに認めてもらえるはずがなかった。 地上から指示一つ出すにつけても、源之助のように、その道を極めた職人の言葉は相手から絶対的な服従を勝ち取る。しかし自分ではとてもそうはいかない。 表面的にではあっても、この現場で職人たちが自分を親方の代理として立ててくれるのは、ひとえに祖父の後ろ盾があるからであり、ほとんどの職人と子供の頃から見知っている仲だからに過ぎない。 巽組の将来に対する考え方も、祖父と陽南子は真っ向から対立している。 彼女は今まで通りに組織を存続していくためには組の会社化を計り、もっと若い弟子に安定した環境を与えることで積極的に後継を育てていくことを主張したが、源之助はそれに応じようとはしなかった。 近年、専門の職人たちの高齢化は著しく、巽組も職人の平均年齢は50代前半になっている。若手が思うように育たない状態でこのままいけば、数年内に職人の多くが70代になり、リタイアする者も少なからず出てくるだろう。 そうなれば大きな仕事を請け負うことさえままならなくなる。 祖父にもそれは分かっていたはずだ。 だからこそ、将来のことも見据えた上で、覚悟を決めて巽組を譲ることを決意したのだろうことは一応理解できる。だが、職人の身分を保証してくれる受け入れ先として稲武の名が上った時には、驚きと同時に失望も感じた。 これでどう転んでも、彼女が巽に入るチャンスはなくなってしまうのだから。 これが、陽南子が稲武の工務店を辞められなくなった理由だった。 もしこの状況でごり押しして巽組に入ったとしても、近い将来巽が稲武に吸収されてしまったら、恐らく陽南子は即座に職を失うだろう。 彼女と社長の稲武の関係は良好とは言えないものだ。今、稲武が陽南子の首を切らないのは、巽組が、ひいては職人の技が欲しいからに他ならない。そのために無用に源之助との関係を悪化させないように、手元で彼女を飼い殺しているのだ。 そして又、それに甘んじている陽南子自身も、どうにも身動きが取れない状況だ。 今、稲武を辞めて他に就職先を探せば、巽を継ぐという野望は完全に潰える。かと言ってこのまま何もしないで手を拱いて見ているだけでは、いずれ源之助は組を稲武に引き継ぐ手配を始めてしまうだろう。 何とかそれだけは食い止めたい。 陽南子は社員でありながら、稲武の社長と会社に良い印象を持っていない。 確かにここは、中堅どころのゼネコンとして、業界では名が通っている工務店だ。しかし、実際は社長がほとんどのことを一人で勝手に仕切ってしまうワンマン経営で、数年間内側から見てきても、どうも内情がはっきりしない。 このご時勢、そんなに儲かっているとも思えないが、社長一家の羽振りは良く、どこからそんな利益が出ているのかと、いつも首を傾げたくなるのだ。 勿論、何か証拠があってのことではないので、彼女にはどうすることもできないが、漠然とした不信はどうしても払拭できなかった。 「考えていても仕方がないか。さぁ、仕事仕事」 陽南子は緩めていたヘルメットの顎紐を締めなおし、軽く両手で自分の頬を叩いて気合を入れた。そして再び現場の喧騒の中に戻って行ったのだった。 それから暫くして、陽南子は古株の職人の一人からある相談を受けた。 「それ、本当?」 「ああ。何となくというか、勘なんだがな。どうにも妙な感じがして。前の現場はもっとビル嵩がなかったんだが、これよりは一回り大きいサイズのを使ってたよ」 職人が手にしているのは鉄筋を補強する鋼材だった。彼が言うには、この現場で使われている鉄骨に対して、鉄筋が細すぎるように思う。強度は大丈夫なのかと訊ねてきたのだ。 もし品番のミスが発覚すれば、今までやってきた工事はすべてやり直しとなり、かなりの額の損失が出ることは必至だ。陽南子は急いで事務所に戻り、設計図を机の上に引っ張り出して品番を確認してみるが、使っているものに間違いはない。 それを見た彼女は安堵のあまりその場にしゃがみ込んだ。 今まで数回、監督の代行として現場に出たが、さほど大きなトラブルに見舞われたことはなかった。だが、もしここでそんなことが起これば、重大な責任問題になる。 事務所に戻るまでの数分間、彼女は最悪の事態を考えていたのだ。 「と、とりあえずは大丈夫みたいね」 取り越し苦労だったと、ひとり言を呟きながら、図面をファイルにしまう。 しかし、陽南子の中では、何かが引っかかったままだった。 職人たちは長年現場で培ってきた勘と経験を持っている。その彼が「おかしい」と感じたと言うのだ。 図面の指示通り施工されているのだから問題はないはずだ。 そう思いながらも、彼女はどうしてもそのままにしておくことができなかった。そこで陽南子は、一度このビルを設計したという建築士に直接会って確認してみることにした。本来なら社長の稲武に話を通すのが筋だが、面倒を嫌うあの男はこんな根拠のない話など、あっさり握りつぶしそうな気がしたからだ。 その人物は朝倉建設の設計部署にいるということだった。 善は急げと会社の前まで職人の車で送ってもらった陽南子は正面に立ち、あんぐりと口を開けたまま、そのビルを見上げていた。 「うわっ、デカい…」 恐らくビルは地上30階以上あるだろう。上のほうは霞んだように見えていて、はっきりとした階数を数えることもできなかった。 朝倉建設は、親会社である総合商社朝倉の本社ビルの中に社を置いていた。 ゼネコンは、得てして豪奢なビルに社屋を構えていることが多いが、ここはまた桁外れに大きく、洒落た造りになっている。 「こんな格好で、中に入れてもらえるんだろうか、私」 自分の服装を見下ろした彼女は思わず考え込んだ。現場からそのまま来たので、作業服のままだ。さすがにドタドタする安全靴は軽いスニーカーに履き替えてきたが、どう見ても小奇麗なオフィスビルを訪ねるようないでたちではない。 恐る恐る入った1階のエントランスは、まるで高級なホテル並だった。ただ決定的に違うのは、行き交うビジネスマンの多さと、中央の一番目立つ場所に受付が作られていることくらいだろうか。 「あの、すみません」 カウンターに近づくと、受付の女性社員に声をかける。 「どちらの会社をお訪ねですか?」 受付の女性は、彼女を見て一瞬驚いたような顔をしたが、すぐににこやかな表情に戻り、用件を訊いて来た。その丁寧な対応に、さすがにこんな大きなビルの顔とも言える受付に座るだけのことはあるなと感心した。美人なこともさることながら、普通なら、こんな小汚いなりでどかどかと入って来られたら嫌な顔の一つもしそうなものだが、彼女たちはそんな素振りさえ見せない。これも大会社の社員教育の賜物か。 「あの、朝倉建設の設計担当の方にお話があるのですが。私こういう者です」 稲武の名前が入った名刺を渡すと、女性は「少々お待ち下さい」と言って電話をかけはじめた。 何事か話をしているうちに困ったような表情を浮かべたのが見えたが、話の内容までは分からない。 「アポイントはお取りになっていらっしゃいますか?」 電話口を押さえた女性に尋ねられて首を振る。 「いえ。急な用件でしたので」 再び何事かを話しているが、すぐにあちらに電話を切られたようだ。 「申し訳ありません。朝倉建設に連絡を入れたところ、担当者は出張中で、生憎分かる者は全員会議中だそうです。一度担当にアポイントをお取りになってから再度ご来訪いただけませんでしょうかとのことですが」 体よく断られたな。 完全に門前払いを食らわされたと、彼女には何となく分かった。 下請け会社の現場の人間がアポイントもなく来たところで、すんなり会ってもらえるとは思わなかったが。 「うーん、どうしようか」 受付の女性に礼を言うと、陽南子はしばらくロビーで考え込んだ。 せっかく勢いつけてここまで乗り込んだのに、このまますごすごと尻尾を巻いて逃げ帰るのも癪に障る。 その時、彼女は不意に背後から名を呼ばれた。 「君、巽さん…巽陽南子さんじゃないか?」 HOME |